「安心して行きなさい」 03−05−25
ルカ8:42〜48
例えどんなことがあっても、主イエスにすがりつき、そこで主の力を
与えられ、健やかにされて生きていくことができる。私たちはそんな
幸いを与えられています。この聖書の場面に登場する女性も、その
幸いを味わい、喜び、生き始めました。
その女性は12年間病気で苦しんでいました。しかも、その病ゆえに、
汚れた者とみなされ、周囲から差別されてきたのでした。そんな女性が
主を知り、主にすがりつきたい一心で近寄ってきたのです。そして、
後ろから主の服の房(ふさ)に触れたのでした。「後ろから」それは、
彼女がためらいを抱えていたからです。病(やまい)が本当に何とか
なるのだろうかという疑いや、こんな自分を主は本当に受け止めて
くださるのだろうかという心配があったしょう。また、自分を汚れた者と
見なすみなす群衆をかき分けていくことは、どんなに大変なことだった
でしょうか。彼女は、後ろから、隠れるようにしてしか主に近寄れません
でした。
しかし、そんなためらいを抱えながらも、それでも主にすがりつこうと
する女性を、主の力は満たしました。主の恵みの力が十分に注ぎ込ま
れました。主は、正面に立つことのできない人の、小さな叫びさえ
聞き逃されはしないのです。主の恵みの力は、女性のためらいに
妨げられることはありませんでした
主は、「私に触れたのは誰か」と問われます。それは、ためらうことなく
主と正面で向き合ってよいことを、知らせるためです。そして「あなたは
救われた」との宣言を、顔と顔を合わせたところで、はっきり告げるため
です。女性は、隠しきれないと思って主の前に来ました。
それは、女性に、しっかりと主のまなざしが向けられていたからに
違いありません。
私たちは、どんなためらいや不安があっても、主に近寄ってすがり
つくべきです。主は、私たちのそんな心配を越えて、恵みの力で
私たちを満たしてくださる方です。
信仰は、自分のためらいよりも、主にすがることを優先する姿です。
その信仰によって救われます。